巨樹がくれた夢(その6)心の依り代としての自然


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一神教の宗教には馴染めない自分にとって、心の拠りどころは、自然崇拝なのかもしれない。自分を取り巻く自然現象や自然物そして自然の仕組み、それらを私は偉大なものと感じ、畏敬の念を持ち続けている。精霊主義とも八百万の神とも言われるこのコンセプトは、教義も仕組みも未熟あるいは素朴すぎる故か、一神教の宗教に比して一段低く、原始的なものと見られているようであり、我が国でも神道や仏教との合体を試行しながら今に至っているようである。

巨樹あるいは森からのメッセージをごく自然に受け入れている自分にとっては、純粋な山岳信仰あるいは自然崇拝というコンセプトが心の拠りどころとなっている。このような立場となると、どうしても人類文明を批判せざるを得ない。

人類は「富と権力」を求めるという強烈なモチベーションで繁栄し巨大化し、結果的に自然破壊を繰り返してきた。これは負の局面である。しかし、一方では豊かな文化・科学を花咲かせ、多くの人に快適で安全な生活を実現させてきた。これはプラスの局面である。

私の好きなエピソードがある。人類が発生し、二足歩行を始めたことによって、人は多くの獲物や収穫を抱えて長い道のりを持ち帰ることが出来るようになり、それらを家族や仲間に分け与えることで絆が生まれて、集団生活が始まったというものである。

やがて人類は定住し、農業を始めた。農業の収穫物の殆どは保存可能であったので、人々はできるだけ多くの穀物を自分で保有・貯蔵したいという欲望を持ち、結果的に「富と権力」を求め、競争社会から格差社会への道を辿った。これは私の嫌いなエピソードである。人類の絶え間のない進歩は、地球規模という視点では大きなマイナス効果をもたらしている。

人種差別のことをレイシズムと呼ぶ。同様の使い方で生物種(スピーシーズ)差別の考え方をスピーシズムと呼ぶようである。人類は他の生物種より優れているので、何をやっても許されるという傲慢な考え方を指すもので、これが自然破壊ひいては地球環境破壊をもたらした原因だと考えられている。

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巨樹がくれた夢
2021年2月12日 佐藤 憲隆


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